KAKEHASHI Tech Blog

カケハシのEngineer Teamによるブログです。

検証コストがゼロに近づくと、アイデアの価値はどう変わるか?

はじめに

生成AI研究開発チームの横田です。 これまでのシステム開発では、「やる価値がある」と確信できるアイデアにしか時間を割けませんでした。 なぜなら、検証にかかるコストが高く、アイデアを"試す"こと自体がリスクだったからです。

しかし、生成AIの進化によって「まず試してみる」が圧倒的にやりやすくなっています。 本記事では、実際に生成AIと共にシミュレータを作った経験をもとに、「検証コストがゼロに近づいた世界では、アイデアの価値評価がどう変わるのか?」について考察します。

シミュレータを使った実験:薬局ユーザー×AIスループット

検証コストが下がっていると感じた事例として、生成AI機能に対してリクエストをシミュレートするシミュレータの作成の例を紹介します。

ある案件で、生成AIを使ったシステムを検討していたところ、「ユーザー数の増加に対して、生成AIの処理のスループットはスケールできるのか?」という疑問が出ました。

通常であれば、APIやUI、データベースなど含めた一式を組んでからでないと検証は難しく、「やってみないとわからない」がネックになります。

生成AIを使えばインフラ構築も含めてサクッと作ることもできるようになっています。しかし今回は生成AIを使ってコードベースで完結するシングルプロセスの軽量なシミュレータを作成し、以下の観点を検証しました

  • ユーザー数とそれを捌くのに必要な生成AI側のスループット(rpm)
  • 処理待ち時間の分布
  • 生成AI側でレートリミット制限を超えてエラーが返ってきた時の、システムのスループットへの影響

シミュレータ作成の感動ポイント

作成において最も感動したのは、以下の3点が簡単にできたことでした

  1. 入出力パラメータの柔軟な修正
  2. シミュレート結果のメトリクス図の作成
  3. シミュレーション戦略の実装

システムの状態を観測するために有用なメトリクスや設定値が設計時には不明瞭だったため、これらを簡単に作成できたことは大きな価値でした。

Pythonのmatplotlibを使ったメトリクスの描画は生成AIが得意とするところ。Claude Codeの場合は画像読み込みにも対応しているので、見た目も見やすく改善してくれました。

図1: AIが画像を読み込んで改善してくれる様子

最初はシンプルな入出力のシミュレータを作りました。リクエストのデータをcsvで入力し、リクエストの処理をシミュレートし、レートリミットなどの機能が効いたときに、リクエストのレイテンシがどうなるのかを確認しました。

そのデバッグ処理の中で、システムが問題なく動いていることを確認するために以下のメトリクスを画像で作成しました

  • 時間経過に伴うキューの長さの推移
  • 時間経過に伴う待機中リクエストの推移
  • 時間経過に伴う、ワーカー使用率の推移
図2: AIが作ったコードで生成したシミュレーションメトリクスの図

PdMと話し合う中で、いくつかシミュレーション要件が出てきました

  • 入力データに関する要件

    • ワーストケース
    • 実際のリクエストのデータ分布と同じリクエストのケース
    • 有償版と無償版のリクエストの割合が変わった場合
    • 店舗数が多い法人のリクエストがきた場合
  • サービスレベル策定に関する要件

    • ユーザー数が増えたときに必要な生成AIのスループット
    • 処理待ちが長くなった時のリクエスト拒否戦略

これらの検証のためにシミュレーターをマイナーチューニングする必要がありましたが、生成AIを使ったコーディングのおかげで数時間で実装できました。

結果として、実際にシステムを構築する前に大枠のシステム挙動を想定しシミュレーション戦略を検証した上で、サービスレベルを決めることができました。

生成AI時代におけるシングルプロセスシミュレータの価値

今の生成AIは、シングルプロセスなPoCの構築において最大の力を発揮すると考えています。

なぜなら、シンプルなインターフェースでシステムを改変及び操作できる環境があれば、短いコンテキストで生成AIがシステムを操作することができるからです。 また、起動コマンドがシンプルだと、安定してシステムの起動・停止ができます。さらに、シングルプロセスのプログラムは生成AIが一貫して作りやすいという特徴があります。クラウドサービスやコンテナを使って複数のプロセス上で動くシステムを構築することも生成AIはやってくれますが、必要なコンテキストが増えるため、安定して動作させるためには人の介在が少なからず必要になってしまいます。

例えば、外部システムとの連携が少なく、主にロジックとデータのやり取りで完結するシステム(例:キューシステム、APIモック、業務ロジックのシミュレーションなど)は、ローカル環境で即座に検証可能です。

今回の薬局ユーザーのシミュレータも、まさにこの「シングルプロセス」の利点を活かした事例でした。

  • 環境構築が不要:ローカルで完結するため、外部依存の複雑さを回避
  • 高速なフィードバックループ:コード修正→実行→結果確認のサイクルが数分で完了
  • コストパフォーマンスが高い:1人で数時間以内に実装・検証可能

上記のように、生成AIが活躍しやすい環境で動作させることによって、パーソナライズされたシミュレータを使った仮説検証を高速に回すことができました。

シミュレーションの価値としては、できるだけ本番環境に近いものの方が課題を発見しやすくなるので、シングルプロセスになることで本番環境との乖離が出てしまい十分に課題を発見できないかもしれません。その点は、生成AIを使ったPDCAサイクルを回すスピードと課題発見の量のトレードオフを考慮した判断が必要かと思います。 とはいえ、シングルプロセスのシミュレータは生成AIがあることによって、今までよりも低コストで構築でき、高速に修正できるので、PDCAサイクルが高速に回ることから、費用対効果は上がっていると言えそうです。

不確実性を戦略的に潰す:検証手段の選定

この事例について、少し俯瞰して考えてみました。 今までは、仮説を検証するためにシミュレータを作るという意思決定をするのはコストと割に合わないと考えて断念することが多かったことが、生成AIによってやりやすくなったという事実について、 これまで「検証する=開発する」だった不確実性潰しのプロセスが、生成AIによって多様な方法で代替可能になったということかと思います。

たとえば

  • LLMロールプレイによる市場反応の事前検証
  • プロトタイプ作成によるUI/UXの仮説検証
  • シミュレータによる内部ロジックの挙動確認
  • MVPによる現場での実証実験

などにも、同様の考え方を適用できそうです。ものづくりのコストが下がった今、重要なのは、「どの段階で」「何を試すか」を戦略的に選ぶことです。安価で速く結果が出せる方法を優先し、リスクの高い不確実性に集中する「検証の最適化」が、開発スピードと成功率を左右します。

生成AIが開発プロセスに組み込まれることでコスト感が変わるため、不確実性潰しのプロセスの見直しが必要になっていると感じました。

誰でも「試せる」世界:組織と個人の思考の変化

また、生成AIによって、非エンジニアも「アイデアを試す」ことが可能になりました。

これにより、PdMやマーケターがプロトタイプやシナリオを自ら構築し、開発チームにフィードバックするサイクルが加速しています。

一方で、「失敗を恐れない=試行錯誤」の無策化や「コストゼロ=価値ゼロ」の思考停止といったリスクも潜んでいるので注意が必要です。

具体例: 目的や学びが曖昧な「とりあえず試す」だけで終わるケース

検証コストが下がると、深く考えずに「まずやってみよう」となりがちです。例えば、PdMやマーケターが生成AIでプロトタイプを量産するものの、目的や評価基準が曖昧なまま大量の試作品が生まれ、どれも活用されないといった事態が起こりえます。また、「失敗を恐れずに挑戦しよう」というメッセージが強調されるあまり、仮説や検証設計が不十分なまま、ただ数をこなすだけの試行錯誤に陥ることもあります。
この場合、「試すこと」自体が目的化し、本来の課題解決や価値創出、学びにつながらないリスクがあります。

具体例: 「簡単だから価値がない」という認知バイアス

検証コストが下がることで、埋没費用効果(サンクコスト効果)や努力正当化バイアスの逆転現象が起こる場合があります。

行動経済学的な背景

人間は心理的に「苦労して得たもの=価値が高い」と感じる傾向があります(努力正当化バイアス)。また、「コストをかけたから続けなければ」という埋没費用効果により、高コストなプロジェクトほど重要視されがちです。

しかし生成AIによって検証コストが劇的に下がると、この認知バイアスが逆に働き、「簡単にできる=価値が低い」という心理的価格感が生まれてしまうかもしれません

具体的な問題パターン

  • 「どうせすぐできるから後で」症候群: 重要な仮説検証を「簡単だから」と先送りし、意思決定が遅れる
  • 「手軽すぎて軽視」現象: プロトタイピングやシミュレーションの結果を「所詮簡単に作ったもの」として軽く扱う
  • 「努力不足感」による信頼度低下: 短時間で作った検証結果に対して、無意識に信頼性を疑う

このようなリスクを避けるためには、「なぜ試すのか」「何を学びたいのか」を明確にし、検証の質と目的意識を持つことが重要です。 また、組織として、「試すことの意義」を再定義し、思考の質を担保する文化の醸成が必要です。

個人レベルでの変化 - 専門家(開発者):自由な創造性を発揮し、より多くの仮説を検証可能に - 非専門家(PdM, マーケター):技術的壁を越えて自ら試行錯誤できるように

組織レベルでの課題 - 暗黙のコスト(Implicit Cost)の認識:思考停止や無策な試行錯誤の防止 - 「失敗」概念の再定義:価値ある失敗と無責任な試行を区別する文化の構築

まとめ

まとめとして、検証コストが限りなくゼロになった未来の開発スタイルについて整理してみました。

変化 具体例
アイデア生成の民主化 プロトタイピングが誰でも可能に
速報性のあるプロダクト開発 シミュレータ+生成AIで即時検証
市場適応力の向上 小さな実験で仮説を素早く検証・改良

技術的インパクト - アイデアから実装までの時間短縮 - 複雑なシステム構成の事前検証が可能に - 合成データによる網羅的なテストシナリオ生成

経営的インパクト - 開発リスクの低減と意思決定の高速化 - 市場投入までのスピード向上 - 競争優位性の獲得

おわりに

「検証コストがゼロに近づく」ということは、「やるかどうか」を判断する前に、まずやってみるという開発スタイルへの転換を意味します。

その変化は、ただのツール進化にとどまりません。意思決定の自由度が増し、探索と思考のスピードが加速し、誰でも軽量に実験できる「検証の民主化」が起きています。

そして今後は、「何を試すか」「何を問うか」こそが、開発者としての価値を決めていくのではないかと思います。

今、あなたが持っているアイデア、本当に検証してみる価値はないでしょうか? 「失敗」を恐れずに、まずは「学び」の価値を見つけてみてください。